巻頭言【平常心是道】 吉田昭久
七月二十一日(木)二十二日(金)の二日間に渡って、笠間焼工房「陽(yoo)」の「合宿」に参加しました。
岩間町の愛宕山中腹にある「スカイロッジ」という山小屋風の施設を利用しての活動でした。足下に遠くの町並が見える施設からの眺望はなかなかのものです。眺めていると、それぞれの町に住む人々による平常の日々の「くらし」を想像したくなります。
二十歳の頃、赤城山の鍋割山に登り、山頂付近から眺めた夕景色をまざまざと思い出しました。茜色に染まっていく西の空の下に、同じ茜色に染まる妙義、浅間、榛名の山稜が、南から北に連なって遠望されます。やがて夕日が遠く浅間山に隠れ、山々が紫色に染まる頃、足下に見える前橋、遠く南に見える伊勢崎、西の高崎といった街々に、一つ二つと灯が点り始め、夕餉のものか薄青い煙があちこちに立ち登ってきます。
この情景を目にしたときの実感は、一つひとつの灯に、立ち登る煙の下に、人々による平常の日々の「くらし」があるということでした。この時に「人間として」「生きる」ということの意味を考え始めたものです。即座に山を降り、真夜中に前橋の自宅に帰ったものでした。
その時からかれこれ五十年。
まあ何とか今まで私なりに「生きる」ことが出来ました。大学へ二十二歳でやっと合格し、二十六歳で卒業証書を手にして、これまたやっとの思いで二十七才の時に大学院に入学し、三十三歳で一応修了して、縁あって母校の大学に教官として迎えてもらったわけです。
満六十五歳の定年を迎えるまでの三十三年間、この間の人と人との日常的なかかわり合いと結びつきの中で、多くの人による「支え」を受けてきました。それが、七十歳の「いま」を造っていると最近頓に思います。今も交流のある高校時代の仲間、大学時代の良き友、恩師、参禅した平林僧堂の三人の老大師、禅堂で時・空間を共有し、隣単で坐した多くの禅師方。全てが「いま」を形作っています。
ところで、社会福祉法人光風会の理念(Mission)の一つは、精神障害者の生活支援、それも一人ひとりが自らの「生」を自己選択して「生きる」道を支援する、というものです。
六月十日(金)十一日(土)十二日(日)の三日間、六人のユーザーと「愛・地球博」参観の旅を企画し、一支援員とともに個々のユーザーに即した自立支援課題を組んで実施しました。たかが二泊程度の時・空間の共有でしかありませんから、それで何が出来るかと叱責を受けそうです。
しかし、わが国では古来、「一緒に、同じ釜の飯を食う」ことで共有感を育み、「一宿一飯」で「人間として」の恩義を感得する心情を生み出すことを知っていました。これは、今も昔も変わらないと考えています
六月と七月のこの二つのユーザーとの時・空間の共有を通して確認できたことは、極く当たり前の平常の心の遣い方と有り様が、ユーザーにとっては難しい課題なのだということです。これはユーザーの問題というよりは、現日本人に共通の課題です。極く当たり前の「人間として」の「くらし」に結びつく平常な心とは、「あいさつ」
「あんぜん」「あとしまつ」。
数年前、茨城町の川根小学校で、良き研究仲間の石川弘容校長の学校ぐるみの教育実践、3A運動の展開に、学校教育現場実践研究として参画しました。この時の3Aが、人としての「挨拶」、自らが自らの身を守る心の働きを作る「安全」、あらゆる人の平常の課題に付いてまわる「跡始末」でした。三年間川根小学校の子ども達を観察して、「人間として」の在り様を教えられた子ども達の生き生きとした顔を思い出します。意図した教化が成長した彼等に、今どう生きているのかが、関心あるところです。
精神の障害とは、平常の心の働きが弱くなる、働かなくなる、働かない状態を造り出すことと気づいて来ました。いやむしろ、平常の心を常に維持し、機能させることが、そもそも人にとって難しいことなのだと我が身を振り返って気づかされています。
まさしく、前途道遠し。支援課題が見えてきます。
特集「自立支援」
今国会で、障害者自立支援法案が審議されています。賛否両論で、参議院を通過するかどうか分かりません。また、「郵政解散」となるかもしれませんので、現時点では不透明です。法が成立するかどうかは別として、今号では法の趣旨である「自立支援」をテーマに特集します。(編集部)
Welfare― 福 祉 ―
多くの障害者や福祉関係者は、この法案に反対しています。障害者サービス費用に一割の定率負担を求められているからです。
私は、この一割定率負担について、基本的には反対ではありません。所得の少ない人に対する課題はありますが、「何でもタダやってあげている」「だからこの程度で我慢しなさい」といった福祉を変えるチャンスだと思っています。
「福祉はタダ」であることに、障害者だけではなく、私たち自身が慣らされてきたいくつかの事実を提示します。一緒に考えてください。
県内にある精神障害者地域生活支援センターの中で、「風(FOO)」の利用料は一番高いと言われてきました。「風(FOO)」で一日過ごして、二〇〇円です。逆に、福祉の世界を知らない人たちからは、「今どき、二〇〇円で過ごせる場所はないでしょ。安すぎるのでは」と指摘を受けました。一般の人の感覚です。
つい最近のことです。ある精神科デイケアの職員の方から印象的な話を聞きました。
現在の精神科デイケア利用は、国民保険や社会保険で賄われ、さらに通院医療費公費負担制度を適用することで、茨城県ではタダ同然です。そこのデイケアには、あえてこの制度を使わず高額なデイケア料を支払っている利用者がいて、この人は治療費を意識し自分に必要な治療だと了解の上でデイケアに参加していているとのこと。
精神科デイケアに長年関わってきたその職員は、治療費の「タダ」という問題性をあらためて考えたと、私に話してくれました。
また、「風(FOO)」のユーザーからは、追加眠剤が溜まり、机の引き出しいっぱいになっていることを聞きました。眠れないと不安だということで、毎回薬を出してもらってきたというのです。どんなに薬を処方されても、自分の財布からお金を払うことがないからこそ、躊躇なく薬を溜めてこられたのかもしれません。
さて、皆さんはどう思いましたか。ご意見を頂ければと思います。
介護保険に利用者負担が導入された時、同じような反対が起こりました。「福祉の後退」だともいわれました。しかし、利用者側が介護料を支払うことで、介護サービスの質を見て選択し始めました。
その結果、介護事業に民間企業が参入し、二十四時間在宅介護や夜間介護が現実に動き出したのです。
戦後六十年を経て、福祉は物質的な貧しさを支えるものから、どのような質の生活(くらし)を創りだせるかが二十一世紀の福祉の課題です。(高島 真澄)
自立支援とエンパワメント
自立支援法が成立するかどうか分かりませんが、「利用者の自己負担金はいくらになるのか」、「施設の収入はどうなるのか」等など、議論がお金の問題ばかりで、いささか辟易しています。
もちろんお金の問題が大切でないなどと言うつもりは毛頭ありません。当事者にとってもお金は重大な問題で、特に重度障害者にとっては生死に関わることでもあります。
しかし、関わる側として「関わりの質」がもっと議論されなければなりません。障害者が地域であたりまえに生きるためのキーワードの一つがエンパワメントです。
エンパワメントという言葉については、NPO「ICCAM」の「精神障害者ピアホームヘルパーガイドライン」を是非読んでください。(PN参照)
ここでは、エンパワメントをイラストで紹介します。
何が「支援」なのか私たちの活動の「質」が課題のとなります。(斎藤 悟)
自立支援法(案)の「自立」と「支援」
二〇〇四年九月の「精神保健医療福祉の改革ビジョン」、十月の「改革のグランドデザイン(案)」を基に、実体法として十二月に公表された「障害者自立支援法(案)」(以下、「法案」と略記)は、障害者の「自立」と「支援」をどのように定義しようとしているのでしょうか。法案の概要と要綱を手がかりに概観してみます。
法案の要綱から
1.目的
この法律は、他の障害者及び障害児の福祉に関する法律と相まって、障害者及び障害児がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営むことができるよう、必要な障害福祉サービスに係る給付その他の支援を行い、もって障害者及び障害児の福祉の増進を図るとともに、障害の有無にかかわらず国民が相互に人格と個性を尊重し安心して暮らすことのできる地域社会の実現に寄与することを目的とすること。(第一条関係)
法案の概要から
障害者の地域生活と就労を進め、自立を支援する観点から、これまで障害種別ごとに異なる法律に基づいて自立支援の観点から提供されてきた福祉サービス、公費負担医療等について、共通の制度の下で一元的に提供する仕組みを創設することとし、自立支援給付の対象者、内容、手続き等、地域生活支援事業、サービスの整備のための計画の作成、費用の負担等を定めるとともに、精神保健福祉法等の関係法律について所要の改正を行う。
「法案」の目的では、「自立した日常生活又は社会生活を営むこと」が主となっていますが、概要では一歩踏み込んで「障害者の地域生活と就労を進め、自立を支援する」と、「就労」が前面に出てきています。条文の示すものは、「障害者は自立した日常生活又は社会生活を地域で営むことと『就労』が必要であり、それを各種サービスの提供で支援する」となります。ここから読み取れることは、障害者の自立支援にとって「就労」支援が大きな位置を占めているということです。
障害者自立支援法による改革のねらい
(1)障害者の福祉サービスを「一元化」
サービス提供主体を市町村に一元化。障害の種類(身体障害、知的障害、精神障害)にかかわらず障害者の自立支援を目的とした共通の福祉サービスは共通の制度により提供。
これは障害の種類毎に提供されてきた福祉サービスを機能面から再編し、障害の種別に関係なく一元的に提供しようとするものです。従来の福祉施設の相互利用を可能とする仕組みでもあります。
それぞれの障害特性にどのように対処するのかは明確でなく、それは後に公布される具体的な省令の中で対応することとなっています。機能面に着目した再編とは、サービス機能で福祉サービスを類型化し再編することです。介護支援としてヘルパーを派遣するといってもそれぞれの障害特性に応じた支援が必要なことは言うまでもありません。
既存の各障害者施設の相互利用も、単に施設利用が可能になるというだけでは具体性を欠きます。今年度後半から、相互利用を可能とするケアマネジメント従事者の養成研修が始まりますが、その資格問題の内容については議論されていません。
障害特性に合わせた細かい配慮システムを欠くとすれば、従来のシステムに慣らされた利用者に混乱の起こることは当然のことです。
(2)障害者がもっと「働ける社会」に
一般就労へ移行することを目的とした事業を創設するなど、働く意欲と能力のある障害者が企業等で働けるよう、福祉側から支援。
精神障害者の就労支援も障害特性に応じた支援である必要があります。
就労訓練を中心とした施策のあり方は、保護的就労として機能していた授産施設を脅かし、「居場所」として機能している小規模作業所の存在を危うくすることになります。このことは、精神障害者に等しく一般就労をゴールとした「職業的自立」観を押しつけることになります。現在の生産性至上主義の社会にあって、精神障害者の障害特性を斟酌すれば、一般就労へと駆り立てることは挫折感を強いるものになります。
精神障害者が「働く」という場合には、一般就労をゴールとするのではなく、人間の多様な「働き」に着目した社会参加の有り様を視野に入れる必要があります。そうした意味での新しい「就労」のあり方やその支援のあり方がもっと研究される必要があり、施策として創設されるべきです。
(3)増大する福祉サービス等の費用を皆で負担し支え合う仕組みの強化
1)利用したサービスの量や所得に応じた「公平な負担」→ 定率負担
障害者が福祉サービス等を利用した場合に、食費等の実費負担や利用したサービスの量等や所得に応じた公平な利用者負担を求める。この場合、適切な経過措置を設ける。
この法案で最も論議されている点は、全てのサービスの利用者負担を一割に固定することです。介護保険等の保険制度との整合性を図る目的で出されたものと考えられます。現在、多くの精神障害者の経済基盤は障害基礎年金(1級:月額8万2千円、2級:6万6千円)にあります。その障害基礎年金の中から利用者負担を拠出することは医療の受診抑制も含めて、福祉サービスの利用抑制につながるとの批判が、各種障害者団体とその支援者団体から出されています。
しかし、障害者にとって何が必要な医療や福祉サービスなのかを議論し、検証することが未だになされていません。ですから、何をもって「自立」とするかが不鮮明です。
経済的な側面でいえば、減免措置が設けられるので、役所に行くのが苦手といった精神障害者の場合には、同行して、減免措置の手続きを積極的に行うような「支援」が課題となります。
修正案では所得の確保についての検討が追加されました。所得の確保がなされて初めて、支援費制度が目指した「自己決定」「自己選択」を基にした「利用者本位」の施策となります。
経済基盤を家族に依存した現況のままで利用者負担を徴収することは、障害者の家族族依存度を高める結果となり、「自立」は空念仏とならざるを得ない状況を生みます。また、実体のあるマネジメントの伴わないサービスの単位化は、紋切り型のサービスを生みだすことになります。
2
) 国の「財政責任の明確化」
福祉サービス等の費用について、これまで国が補助する仕組みであった在宅サービスも含め、国が義務的に負担する仕組みに改める。
各種訓練給付と介護等給付を合わせた個人給付については、障害区分認定を経て、国が義務的に5割を負担することとなっています。一方で、精神障害者の多くが対象となる地域生活支援事業については市町村の地域福祉計画に依存し、国は見込み量を超えた分については負担せず、市町村が全額負担する仕組みとなっています。
ここから危惧されることは現在でも問題となっている地域格差がより大きくなることです。量だけでなく、地域生活支援事業の質も、A市では受けられるサービスが、隣のB市では受けられないというような事態が更に拡大することになります。
与えられる福祉からの脱却へ
将来的に障害者福祉施策を介護保険と融合させることを目的とした、この「法案」は、障害者福祉制度の財政的維持と福祉サービスの効率的提供を最優先課題として提出されたといわれています。
利用者負担の増大の問題がもっとも議論を醸していますが、精神障害者の場合は他障害に比べて社会資源の整備等が立ち後れてきただけでなく、社会的な差別や偏見にも晒されてきました。これら社会的スティグマの課題と経済的保障も含めた障害者としての権利保障の問題が、「法案」の本質的課題として議論されるべきです。
与えられる福祉から契約に基づく利用者本位の障害者福祉施策へと改革を進めるには、等しく障害者の「自立」を「支援」する具体的活動の積み重ねが前提となります。(鈴木 宗夫)
子どもを診断名で呼ばないで
〜「発達障害者支援法」を考える そして「障害者自立支援法」との関連は〜
二〇〇五年四月、「発達障害者支援法」が施行されました。
「発達障害」とは、「・・・自閉症、アスペルガ―症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるものをいう。」(第2条)
多くの場合に自閉症は、現在「知的障害」の枠組みの中で教育・福祉的支援の対象にされています。とはいえ、自閉症には知的障害と異なる障害特性があり、個人差も大きいので、現状の支援体制で充分であるとは言えません。
高機能自閉症、注意欠陥多動性障害、学習障害といった障害のある人たちは、知的障害の程度が「軽度か」「全くないか」、逆に「非常に優れている」ために、福祉・教育・医療などのサービスの対象にならずにいました。その対応策として、「親の会」の強い要望に即して、包括的な支援体制の構築を図るため成立したのがこの法律です。
この法律では主に
1.早期発見、発達支援から、教育・就労・地域での生活といった一貫した支援
2.発達障害者支援センターの全国的整備
3.発達障害者支援を担う人材の育成
等々が盛り込まれています。
発達障害者支援センター(以下、「センター」)は、二〇〇四年度末で全国二十三ケ所あります。茨城県では、二十二ケ所目の「センター」として、茨城町に社会福祉法人「梅の里」が、県の委託を受けて開設しています。
去る五月二十七日(金)、茨城県精神保健福祉センターにおいて「精神保健福祉についての専門講座」が開かれ、そこで「センター」の嘱託医の成田氏と、「センター」長の高松氏の話を聞く機会がありました。
成田氏によると、
1.発達障害の分類や診断については未だ不明確
2.早期発見のためには早期診断が第一義
3.関係者は『おかしい子を見抜く目』を持つことが必要
とのことでした。
高松氏は、法律の概要や「センター」の理念と機能について話しました。機能としての具体的な療育支援の内容についての話はなく、早期診断につなげるための「検査法」の説明が主でした。当事者への具体的な支援の方法についてはなにも提示されませんでした。
言ってみれば、早期発見のための早期診断が強調されすぎている感がありました。
発達障害者支援法では、保育について「…発達障害児の健全な発達が他の児童と共に生活することを通じて図られるよう…」(第7条)、教育について「…教育を受ける者が発達障害を有するかどうかに関らずともに学ぶことに配慮しつつ…」(第8条)と謳っています。
私は、県内四市町で子どもの療育相談に当たっています。
最近、子どもが落ち着きがない、こだわりが強い、皆と同じ行動が取れないなどの理由で、幼稚園や小学校の先生から病院で診断を受けるよう勧められた、という母親からの相談が増えています。
医師からの診断名がつき、それを親も納得すると、教師は発達障害の子として対応する方向性が取れます。そして、他児と違う何らかの特別な指導をすることになります。これによって、その子は差別を受ける可能性がでてくるばかりか、将来的に地域で自立した生活を送るための選択の幅が限られてしまうことになりかねません。発達障害者支援法は、教育・就労・地域生活まで一貫した支援体制をとろうとするものだからです。
一方、親が納得しない場合もあります。あいまいな診断に戸惑い、わが子が差別されないか、将来の方向を決めてしまうことにならないかと不安になるのは親として当然のことでしょう。しかし、そのような考えを持つ親は「子どものためにするべきことをしない『おかしな親』」と非難の眼を向けられることになります。
ある母親が「子どもを診断名で見るのでなく、この子として見てほしい」と言っていたのが印象に残っています。
早期発見を否定するものではありません。しかし、子どもに関る保育士、教師、親、関係者がこのような現状をきちんと把握する必要があります、また、診断名で判断するのでなく、一人ひとりが皆と共に生きていくための必要な支援は何かを検討していくことが、発達障害者支援法という法律以前の課題として必要なことだと思います。
本当に支援を必要とする人が、必要な支援が受けられる発達障害者支援法であることを前提とするならば、これは現在審議中の「障害者自立支援法」につながっている課題でもあります。
「障害者自立支援法」において障害児とは、児童福祉法に規定する障害児、すなわち「身体に障害のある児童又は知的障害のある児童」(児童福祉法 第六条の二―二)とされています。自閉症は知的障害の枠組みの中で対象となっているのです。
一方、二〇〇二年に実施した文部科学省の調査によると、小・中学校の通常の学級に在籍するその他の発達障害、またはその可能性のある児童生徒は全体の約六%いることが示されています。
「発達障害者支援法」に対応させ、支援対象の枠組みを広げていくのかどうかこれから問題となるでしょう。
「ノーマライゼーション」が謳う「地域の中で」「ともに生きる」実践のためには、具体的にどう支援するかの検討が不充分です。
診断法が不明確な中、早期発見のためにと、まさに発達途上である子どもに診断名をつけ、発達障害者としての支援のレールに早くから乗せるのは問題ではないでしょうか。
(高橋 寿子)
占い好きは、妄想性責任回避型人格障害?
私が勝手につけた「診断名」です。
診断(Diagnosis)とは、病気の本態を正確に捉えることであり、治療の前提となるものです。治療の具体的方略が必要です。ですから、「占いを信じている人」に対して、私が勝手につけた「妄想性責任回避型人格障害」という診断は、具体的対処方略がないので笑いの対象にもなりません。
何のための診断なのか、どう対応するのかが重要なのです。専門家自身に、「視野狭窄性分類固執型解決不全症候群」との診断がくだされてしまっては、笑いごとではすみません。
こんなことを書いているとそのうち、私に「低機能健常者」という診断名がつけられるかもしれません。(編集子)
「風(FOO)」
支援センターの『卒業』はユーザー自身のマネジメント
「精神障害者を病院から地域へ」と社会が大きく動き始めたのは、約十八年前のことです。それまで精神障害者は、発病後の生活を、隔離されるように僻地に建てられた精神科病院で過ごすことが当たり前のように考えられていました。
一九八七年、精神障害者が地域で暮らすために援護寮・授産施設が法定化されました。それから数年遅れて、一九九九年に地域生活支援センターが精神障害者の社会復帰施設として法定化されました。
「風(FOO)」は、ゴロゴロとゆっくりすることが出来る「居場所」として、二〇〇一年四月に開所し、今年の四月に五年目を迎えました。初期に登録したユーザーは五回目の更新を行っています。登録の際には、どのように「風(FOO)」を利用したいのかを面接で確認し、ユーザーが抱える課題に対してスタッフと共に支援計画を立てて取り組んでいます。
ユーザーが現在の課題を抱えている自分自身と向き合い、目的を持って支援を受けることは、とてもPOWERの要ることだと感じています。しかし、目的を意識して支援計画を立てなければ無意味に登録しているだけになってしまいます。そして、自分の生活を見直すことがなければ、生活支援センターに登録している意味がなくなってしまうだけではなく、本来持っている本人の力を削いでしまうことになりかねません。
また、病院から場所が移っただけの「施設での抱え込み」になってしまいます。
「風(FOO)」も決して例外ではありません。「施設での抱え込み」を避け、ユーザーが自分自身と向き合う機会とするために、「風(FOO)」では契約期間を一年間としています。一年という節目で自分をマネジメントして欲しいと考えています。
四年間の活動の中で終了事由は様々ですが、十四名のユーザーが登録を終了しました。終了者の多くに共通して言えることは、ユーザー自身が自分をマネジメントしたことだと考えています。終了者の一人は、「卒業」という言葉を使っています。そのユーザーは、スタッフと一緒に生活の中に自分の「役割」や「しごと」を見つけ、生活リズムが安定して家庭で過ごすことができ、それによって「自分で生活が組み立てられるようになったから、卒業します」と終了となりました。
ユーザーは「風(FOO)」に何を支援して欲しいのか、そのために自分は何をするのか、考えなければならないかを明確にすることで、「卒業」が現実となってくると感じています。
現在の「風(FOO)」の状況としては、当たり前のように即答で登録更新を行うユーザーがほとんどです。自分には「風(FOO)」は必要じゃない、又は「風(FOO)」は自分が期待していたような場所じゃないと判断し、自己選択して、自身をマネジメントできるようにすることも一つの支援だと考えています。
また、「卒業」をしても、必要になった時は再度登録すれば良いことであると考えています。しかし、必要な時に、必要な援助を受け「上手に頼る」ということは、難しいことなのかもしれません。もちろん、登録を続けることは悪いことではありませんが、自分をマネジメントすることなく更新をすることで、可能性に蓋をしてしまわないようにすべきです。
ユーザーが自分自身をマネジメント出来るかどうかは、支援者としての力量が試されているのだと感じています。 (出澤 華奈子)
精神福祉コラム
施 設 症 hospitalism・institutionalism
「川は流れているから澄んでいる」と聞いたことがありますが、それは施設も同じです。
「施設症(hospitalism・institutionalism)」は、精神科領域でいうと、長期の入院者、施設利用者にみられる意欲低下、依存傾向、退行現象などの起因とされています。長期に渡る受動的な環境で自立性が阻害され、結果「澱む」のです。
受動的な環境においては、目の前に提供される食事や入浴、作業やプログラムをこなせば、飢えや不快感、責任に伴う重荷から守られます。もし施設に一生居られるのならば、「死ぬまで生命や活動が保障されている」と考えることもできます。
しかし、自立性が阻害された事態は、その人の権利が剥奪された状態だといえます。「死ぬまで生命や活動が保障されている」ことを生活の保障とは言いません。権利が剥奪された状態が「生活」とは言わないのです。
「施設症」が生まれた背景として、まずは支援者の「施設症」があると思います。施設を作り運営するのはほとんどが支援者だからです。入院者、施設利用者の「施設症」を考えるためには、支援者自らが自分の「施設症」に気づいていく必要があります。今まで私は、施設を単なる建物や設備と捉えていました。しかし、辞書を引くと加えて、「必要に応じた管理・運営がなされる態勢を備えた状態にあること」と出ていました。今「施設症」を考える場合、管理・運営の必要とは何かを問うことが求められます。
利用や契約という概念が福祉にも用いられ、施設ではなく機能へ給付される自立支援法の理念からも、川は「流れる」方へ向かっているように見えます。しかし、私自身も含めて「施設症」の根は深いと思います。先のJR脱線事故で言われた、「大企業病」にも通じるところがあるのではないでしょうか。(川島 麻子)
「風(FOO)」浸水
7月7日(木)、これから七夕の夕食という時間。突然の雷雨により、「風(FOO)」の地下室が浸水しました。居合わせたユーザーの援助を受けて、絨毯は1階へ運ぶことができましたが、地下室は9月までは使えない状態です。アスファルトで覆われた土地、土地の傾斜によって「風(FOO)」に集中する水、排水路の不備。道路行政上の課題と地球温暖化の課題です。今後に備え、遅ればせながら、集中豪雨時対応マニュアルを作成するともに、土嚢を倍増しました。また、支出が増えてしまいます。(斎藤)
「陽(yoo)」
長期利用者の現状
梅雨期の花というと紫陽花を思い浮かべますが、多くのハーブもこの時期に花をつけます。ベルガモット・フェンネル・様々なセージ・レモンバーム・ミントなどが湿った空気に香りを乗せます。
でも季節はもう夏。関東地方は七月十八日の海の日に梅雨明け宣言が出ました。
七月二十一・二十二日は合宿で、隣の岩間町のスカイロッジに泊まって往復をハイキングする予定なのですが、梅雨明けが吉と出るか凶と出るか予想の立たないところです。
標示では登り四十分・下り三十分というコースですが、結構急勾配なので倍以上の時間をとってケガをせぬよう、熱中症にならぬよう、体調を崩さぬよう気をつけていこうと思います。
そんな季節的なことだけでなく、最近私を含め、周囲の五十代の人を見回すと、様々な障害に突然のように見舞われる人が目立って増えてきました。それほどでもなくても、予備軍的な「高血圧ぎみ・高コレステロールぎみ」症状とは、ほとんどの人が向かい合っています。理屈ではなく「五十歳節目」説を実感しています。
工房「陽(yoo)」の利用者は、現在二十代〜六十代の二十一名ですが、四十代以上が十六名です。大病こそありませんが、数々の成人病に加え、五十歳を過ぎると体力の衰えが顕著で、それは意欲の衰えにつながってしまいます。そういう人たちを精神障害者小規模授産施設の対象者として、支援課題を立てなくてはならないこと自体が重荷になってきています。
ハイキングとか坂道などの言葉だけでも拒絶反応を示す人もいます。
昨年の旅行は、六月の奥日光だったのですが、小田代ヶ原までのカッコーの声を聞きながらの林道散策がとても評判でした。もちろん歩かずにその部分をバスで通り抜けた人達もいました。そのグループが散策という楽しい体験をしたグループに少しでも興味を持って、体を動かす楽しさを知って、その結果として老化予防につながればと遠大で楽しい企画に苦心しています。
「百も承知、でもできない」のも人の常なら、「楽しければなんとなくできる」のも人なのでしょう。(鷺野谷まち子)
「陽(yoo)」としての歴史はまだ2年ですが、「笠間焼共同作業所」時代から数えると、もう17年になります。あたりまえのことですが、当時40歳だった人は、57歳を迎えます。
自立支援法の成否・是非にかかわらず、小規模授産施設の役割・機能を明確化していくことが大きな課題です。(編集子)
生きる術とは
精神障害者の多くが人間関係で悩んでいる、ということに私はかなり共感します。
私の場合、面倒な人付き合いはせずにマイペースに家で仕事をしていれば、ストレスになるトラブルやプレッシャーはほとんどないのですが、それでは食べていけないので、作った物を売る為にチャンスを捉えて行動する臨機応変さも必要になってきます。
ところが実際は、いい歳をして、もじもじその場に相応しい挨拶すらできなくて、自己嫌悪なんてことはしょっちゅうで、その度に自分の社会性のなさを思い知るのです。
『社交辞令なんて言わなくてOK
自由で気ままなスローライフをあなたも!』
なんてスローガンが社会で通用すれば、みんなの飲んでいる薬がひとつ減るのでは?
でも、社会と繋がっていなければ生き辛いとなれば、上手に人と付き合う術を身に付けるにこした事はないのですが、年齢を重ねてゆくほどにそれが難しくなっていくようです。
(伊藤 まり子・陶芸家)
陶 芸 コ ラ ム
鎹(かすがい)
中国映画や韓国映画を興味をもって見ています。映画自体を楽しんでいるのは勿論ですが、時代物の長編ドラマを含めて文化や生活が見え、色々と納得できる事が多くあり、理解が深まる喜びがあります。
中でもチャンイーモウ監督の映画が好きでよく見ています。彼の「初恋のきた道」という作品の中に、中国の田舎を旅して歩きながら、割れた陶磁器の直しを生業にしている役が出てきます。
大事にしていた鉢が割れたのを直してもらうシーンがあり、本体と割れた破片に小さな穴を開け、金属のカスガイで止めて直していました。手際のよさに唖然とする思いで見ました。直した状態が青磁の名品である、銘「馬蝗絆」という茶碗と同じでした。この茶碗は、南宋の青磁で、澄んだ青い器胎が割れていて、カズガイを数個使って直してあります。その風情が銘の通りイナゴが付いているように見える茶碗で、違和感のある金属が一層青磁の美しさと割れ物である危うさとを際立たせています。
私には、この直し方がわざわざそうしたように見えていました。薄く硬い磁器の器胎に深さ1ミリ弱の小さな穴を開け、鎹で正確に水も漏れないように合わせる。この信じられない「直し」手法が簡単に見えるほどのみごとな手技に、ただすごいと思いながら、中国では一時代前まで普通にあった技術であることと、その技術が滅んでいくことに寂しさを感じました。(菅原 淳一・陶芸家)
子ども研
研究助成が決定しました!
かねてより研究助成団体へ申請をしていましたが、この度「子育て連続講座」の実施事業へ「社団法人倶進会」からの助成が決定しました。
研究助成を受けることは、何よりこの事業が客観的な評価を得たということです。
もちろん、この事業も「茨精研(ICCAM)」と協働で行うものですが、「子どもの問題研究所」として助成を受けるのは初めてです。これにより、充実した事業内容を展開し、次へのステップアップにつながる報告書作成を目指していきます。
というわけで・・・「子育て連続講座」を開始しています
今年度は、鹿嶋市・岩間町・水戸市の三ヶ所で実施を予定しています。いづれも日程、場所等が決定し、鹿島市ではすでに二回目まで終了しました。岩間町、水戸市については八〜十月に実施予定で現在チラシ等により参加者募集中です。
七月二十一日に実施された鹿島市の二回目の講座では、『ふつうの子』ってどんな子なのかが話題の一つになりました。
そこでは、
今の幼稚園や学校ではいわゆる『ふつうの子』の枠がとても狭くなっていて、少しでもそこからはみ出すと問題にされてしまう。
しかし、対応の仕方を変えることによって、子どもが大きく変わることもある。
一人ひとりに応じた対応をしてもらうためには、親が教師ともっとコミュニケーションをとることも必要、
というような話し合いがなされました。
講師の成井先生を中心に意見交換した中で、それぞれの参加者がどんな気づきを得たのかは最終回の三回目で確認されます。
岩間町と水戸市でもどんな参加者との出会いがあり、それぞれの方がどんな気づきを得るのか楽しみです。
この講座のテキストとしているのが「子育て支援マニュアル」です。水戸市の木製玩具専門店「木れんが」、笠間市の「ともちゃんの店」、日立市の「ワークスたんぽぽ」に、「子育て支援マニュアル」を置き、販売しています。
また、「茨精研(ICCAM)」のホームページ上でも掲示中です。ぜひご覧ください!(高橋 寿子)
子どものコラム
一寸の虫にも五分の魂
〜どんなに小さく弱い生きものでも、それ相応の思慮や根性を必ずもっているものだ。という意味。子どもを、一人の人間として尊重する姿勢が基本です。〜
「子育て支援マニュアル」では、それぞれの発達課題に照らして、このようなことわざを「一口メモ」として提示しています。この格言は、「じぶんで!やるの!〜自立心と反抗心」のページの一口メモです。
さて、先日幼稚園の先生をしている方から聞いた話。
その幼稚園では、少子化の昨今、兄弟姉妹関係での体験も少なくなっていること等に配慮し、縦割保育を取り入れています。そこでの一場面。
何かに向かって一目散にかけてきた男の子。その途中に自分より小さな子がいたことに目前になって気づきます。どうなることかと先生は見ていると、そのままでは衝突してしまうと判断したのかもしれません。男の子は、自分で転んでしまいます。
結果として予想された事態を免れたそうです。
ほほえましい光景が私には浮かびました。
日常の体験の中でも、子どもの心はいろいろに動いているのです。
家に帰って「またこんなに汚しちゃって」なんて親から言われないことを期待したいものです。(高橋)
食育基本法成立をご存知ですか?
「教育」ではありません。「食育」です。私は、最近まで知りませんでした。
たしかに、「食」は乱れています。
・食の安全性
・MOTTAINAI食べ方
・環境問題・自給率
・コンビニ化する食事 などなど
「風(FOO)」での食事会のあり方を見ても、私自身の食事を考えてみても、「食」には沢山の課題が含まれています。
しかし、「食育」のあり方の基本を国が定めるものなのでしょうか。どうも「食」が乱れたのは国民に原因があるらしく、「食育の国民運動」をするのだそうです。教育の問題なら教育の問題とすべきではないかと思うのですが、「イベント(国民運動)」が好きなのか、中身がよくわかりません。
ただ、そのうち「徳育基本法」ができてしまうのではと危惧しています。「心のノート」でもう始まっているとも言えますが。(編集子)
法人本部
「第8回 評議員会」「第13回 理 事 会」を開催しました。
月 日 五月十四日(土) 午前:評議員会 午後:理事会
場 所 三の丸ホテル2Fリルト
出席者 評議員会 評議員十五名 理 事 会 理事六名・監事一名
(一)報告事項
第十二回理事会における付帯事項報告
(二)審議事項
第一号議案
二〇〇四(平成十六)年度
社会福祉法人光風会事業報告
第二号議案
二〇〇四(平成十六)年度
社会福祉法人光風会決算報告
文化の窓
「愛死」
カタカナ英語を日本語に置き換えること
エイズの中国語表記が「愛死」であることを知り、なんてインパクトのある「ことば」なのかと妙に感心しました。単に「HIV」とか「エイズ」と略称した表記は、エイズに関する情報や知識がなければ何を示すのか分かりません。「愛」と「死」との漢字二語が、エイズを抱えるに至る人間関係性と死につながる病であることを考えるまでもなく、視覚的に訴えてきます。私自身が、少なからず漢字を使う日本文化の中で育ったということを、意識化した時でした。
茨城県精神障害地域ケアー研究会(略称「茨精研」ICCAM)は、社会福祉法人光風会と両輪の関係で精神福祉に関する活動をするNPO法人です。二〇〇四年から二〇〇五年に掛け、株式会社ファイザーの「ファイザープログラム」の助成を受けて、「茨精研」ICCAM は「精神障害者ピアホームヘルパーガイドライン」を作成しました。この「ガイドライン」では、「カミングアウト」「エンパワメント」「マネジメント」「モニタリング」等々、福祉関係者にはおなじみのカタカナ用語を意識して用いました。同じ用語が、福祉現場では原語から全くずれた内容で使用されている状況を危惧してのことです。
これから私たちは、これらのローマ字表記の専門用語をどのような日本語に置き換えるかの検討を開始していきます。日本語の語彙が乏しい私には、頭の痛い課題です。
以前、二〇〇五年冬号の「花信風」bS」に、理事長が「切磋琢磨」と題して光風会スタッフの「しごと」の点検について書きました。その最後に、切磋琢磨の意味は、「素材を切り出し、磨き、素材に刻み込み、磨く」とあります。まさに、「エンパワメントのことだ」と、初めて気づかされ驚きました。恥ずかしながら私は、互いに努力を重ねて磨きあうという過酷なイメージを持つ熟語程度にしか、言葉の意味を知りませんでした。
日本語が乱れていると言われて久しくなります。日常がおしゃべりばかりで、意味の無い言葉が洪水のように耳に入ってきます。その一方で、本屋には日本語に関する書籍が沢山並んでいます。日本人の多くが、母国語=日本語に自信がもてなくなっているのでしょう。「ことば」に力が無くなる時、切磋琢磨=エンパワメントとなる力を、私たちは無くしてしまうのです。
「愛死」という中国語を知り、外来語を受け入れる際にも、何とか日本語にして自分たちの「ことば」にする作業を怠ってはいけないと、あらためて感じました。(高島 真澄)
(参考文献) 瀬戸内寂聴「愛死」上・下 講談社 一九九四
編集後記
障害者自立支援法は、「福祉の前進」か「福祉の後退」か?
私は、福祉が後退するほど進んでいないし、前進するほどの体をなしていないと思います。と、天邪鬼なこと書いたところで思い出しました。
先日、二十七年前の大学時代に書いた、自分のレポートを読む機会がありました。我ながら、もっと真直ぐに、ものが見られないものかと笑ってしまいました。髪の毛は抜け腹が出てきましたが、根性が曲がっていることは二十七年経った今でも変わりません。(斎藤)
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