特集「評価」を受ける
早いもので、本年度最後の「花信風」となりました。まもなく新年度を迎えます。
新年度から光風会は、障害者自立支援法に完全対応した事業展開を図っていきます。現在、事務局で新年度の事業計画案を練っているところです。
ご承知のとおり、自立支援法の柱の1つは、「“施設”から“事業”へ」です。今までも「事業計画」という言葉を使ってきたのですが、言葉だけでなく実態を“事業”としなければなりません。法でいうところの「営業」「サービス」という言葉には馴染めませんが、事業計画が大切であることに変わりはありません。
さて、事業を行うとは、理念のもとに“事業計画”を“実施”し、その結果を“総括”し、“次期活動”に生かすということです。そしてそれが評価視点となります。まさに、PDCA(Plan, Do, Check, Action)のサイクルを評価することが大切になるのです。それは、ISOの評価視点でもあり、「自己評価しているかどうかを評価する」とも言えます。
私たちの頭には、「評価=格付け」という図式が出来あがっています。成果を形に表すことが出来にくい福祉の世界に、評価は馴染まないという認識を持ちがちです。しかし、評価のない世界はないのです。
そこで、今号は、「グループホームのQOLと第三者評価としてのISO」を主題として、当会と「茨精研」協働で開催した地域交流・啓発事業報告を基に、「『評価』」を受ける」をテーマとしてお届けします。
1.理事長提言
明月蘆花君自看(吉田)
2007年を迎えて、(社福)光風会全スタッフは、障害者自立支援法(以下「支援法」)体制下の精神障害者支援の具体的あり方について改めて意を集結し、活動を開始しました。今までの「花信風」で既に案内したように、従来の施設を中心とした福祉実践活動から、それぞれの法人理念に即した諸事業の展開が要求される体制に、大きく変化しました。しかも、国や県が補助金制度としてほとんど丸抱えにして来た体制から、市町村といった地方自治体単位の、予算化を前提とする事業助成に位置づけられたのです。つまり、各地方自治体から、法人の提起する事業が、意味あるもの・意義あるもの、あるいは必要・不必要の「評価」を、その厳密さは別として受けることになったわけです。
社会保障・社会福祉の従来の枠組みに立って、「支援法」成立・実施に当たってはさまざまな批判がなされて来ました。今も。
(社福)光風会でも運営会議において、「支援法」制定の動きを情報として得ると同時に学習会や研修会を設定して来ました、批判的に検討を重ねるとともに、社会状況を踏まえ、法の成立を前提として対処方略の検討も行って来ました。
それは、イギリスや北欧スウェーデン、フィンランド、デンマークの障害児・者施策の実際を、「茨精研・ICCAM」の活動を通して見聞・点検し、インテグレーション、ノーマライゼーション、インクルージョンと、障害児者と「共に生きる」社会的理念の進展を、具体的施策とともに確認していたからです。
そこで、我が国の社会福祉施策は、第三者からの「評価」を受けることが絶対に必要だと結論したのです。「支援法」の具体的な展開を通して、自らの行う精神障害児・者援助・支援の妥当性、信頼性、有効性を検討する土壌を、我が国の社会福祉「業界」に造ることは必要・不可欠のことと考えています。
このような時代状況の変貌は、社会福祉の領域に止まっていないことは既にご承知の通りです。これも既に指摘して来たように教育基本法(以下、「基本法」)の改悪から始まりました。関連する教育関係法の、ほぼ自動的と言える改正があって、国民投票法制定、憲法改悪と続く道が見えるようです。
当然のことながら(社福)光風会子どもの問題研究所(以下、「子ども研」)の設立の趣旨は、現況のような子どもを取り巻く「世界」が起こって来ることを予期してのことでした。時代相の変化を止めることは出来ないとしても、課題として起る事柄への対処方略は組み立て得ると考えたのです。「子ども研」の活動は充分なものではありません。しかし、「基本法」改悪に続く学校教育法、教職員特例法、少年法等々、子どもの「人間として」の生育にかかわる教育関係法の改訂を視野に入れた点検は続けて来ています。
いじめ、自殺、携帯電話・インターネット被害、学級崩壊その他諸々。大人の無力さを反映した「子どもの世界」で起こる諸問題への対処が急務であることに異論はありません。しかし、我田引水を承知の上で言えば、このような「子どもの世界」の出現は、十数年前に評論社『こころの科学』で指摘したことでした。関心を持たれませんでしたが、あらゆる階層、職業、地位の大人が、文字通り「大人として」の「矜持(きょうじ)を正す」ことが必要で、「師範」となることが重要と主張したのでした。
「基本法」改悪に伴い現政権の肝いりで開始された教育再生会議の出した中間報告を、新聞報道で見る限りのことですが、学校教育「現場」の問題性は種々指摘していても、「現場」の具体的課題に関してはほとんど無知で、しかも抽象論に寄っていて、子どもを「育む」側としての個々の大人が、子どもたちに何をすることなのかについては何も言っていません。
ところで自分自身は、子どもへの具体的かかわりにおいて、「大人として」何を「為す」ことが出来たかを振り返って見ました。
水戸市内の複数の中学校が荒れに荒れていた十数年前、中学校在職の研究仲間達と荒れる中学生と実際にかかわっていた時代のことです。住いのすぐ近くの中学校もご多分にもれず荒れに荒れていました。その中学校に通う一人の中学生との「出会い」を忘れることは出来ません。現在も続けている毎朝早朝の運動の時、その少年と出合ったのです。
彼はいかにも「不良」。学帽を阿彌陀に被り、学生服の衿ボタンや上のボタンを外し、通学鞄を片方の肩にだらしなく引っ掛け、運動靴の踵を潰して履き、けだるそうにズルズルと歩いて来ます。「おはよう」と声を掛けても最初の2・3回は無視。次の2・3回は「なんだョ!」と敵意剥き出しの顔。その間、「早いな」とか「今朝は何」とかの「ことば」を掛け続けました。次の2・3回では「おはよう」の声掛けに無言で軽く頭を下げるようになり、さらにその後では、「おはよう」に「おはようございます」、「今朝も早いナ」に「『朝練』です」と応答するようになりました。
この頃になると彼の態度が変わり始め、帽子の阿彌陀被りは無くなり、服装のだらしなさや歩く姿のけだるさは無くなったのです。短い声掛けには必ず適切な応答を元気よくするようになるのです。その年の秋口までの約6ヶ月間の「かかわり」。彼は「いま」、どこで、どんなふうに、何をして生きているのだろうと思わずにはいられません。
それは、彼の「そのとき」の姿が、敗戦後の昭和23年、中学2年生の自分の姿と二重写しになって甦るからです。今も昔も子どもの「こころ」の本質は変わっていないと実感するのです。このような「大人として」の「出会いの創造」は、地域の中で今も続けています。
障害児・者に対する「支援法」体制下のかかわりや、「基本法」体制下の青少年やその親、教師集団への具体的対応は、(社福)光風会にとって現実的課題です。そこでは、課題に即応する事業を推進する体制を造り上げることが急務です。最終的には3月開催の理事会決定を待つ必要がありますが、4月から水戸で地域活動支援、生活訓練、相談支援の事業を、笠間で現状の授産活動を就労継続支援事業として継承し、新たに、生活訓練、地域活動支援の事業を展開するための「センター」を開設します。この他「子ども研」活動の充実の方向性も含めて、いくつかの新たな事業の展開を企画・検討中です。
(社福)光風会は、21世紀の人々の「くらし」を展望し、水戸と笠間の「地」を基盤として法人活動を展開します。その際のキーワードは、「共同体」、「居場所」、「生活化」、「作品化」です。これに関しては稿を改めて提起いたします。
とまれ、まず自ら「為す」こと、「為せること」を「為す」。自らが自らを「評価」する。その人なりに素朴に「やった」「やれた」と実感する・できる「くらし」の創造を、ユーザー、メンバー共々自己課題として展開します。
明月蘆花君自看
明月、蘆花、君自ラ看ヨ。言ってみれば、自己の内心に見よ、自分の心の内側に見えるあらゆる対象を、そのままちゃんと見なさい、位置づけなさいということ。
蘆花は、水辺の蘆原の上にまん丸な月が昇った図。
2.地域交流啓発事業第6回“風”をはこぶシンポジウム をふり返って
グループホームのQOLと第三者評価としてのISO
−精神障害者の人権を尊重した生活(くらし)を創りだす−
2006年11月26日(日)水戸市三の丸公民館にて開催
〈何故このテーマを選んだか〉
光風会と両輪で活動しているNPO茨城県精神障害地域ケアー研究会は、今年度、トヨタ財団より「精神障害者グループホームのQOLに関する第三者評価の設定−地域に施設囲い込みを作らないための方略の点検−」に対する研究助成を受け、精神障害者支援の基礎的研究を実施しています。
認知症のグループホームでは、火事や入居者への虐待等の度重なる事故を契機に、すでに第三者評価機関による第三者評価が義務付けられています。さらに、今年からは、自治体が指定する調査会社が介護事業所のサービス内容を調査し、その結果をインターネットで公表することも義務付けられました。
精神障害者グループホームは、長期入院者の退院促進を目標に急増しています。しかし、多くは精神科病院の敷地内や隣接地に建てられているのが現状です。グループホーム内で、どのような生活(くらし)が営まれているのか、私たちには見えてきません。
そこで、「グループホームのQOLとは何か」「QOLを評価する視点は何か」を明確にする必要があると考え、研究テーマを設定しました。
◆「第三者評価」を活かすどころではない高齢者福祉現場の状況
シンポジウム実施にあたり、「案内文」を開催2ヶ月前に、約2,000通郵送しました。県内の介護事業所や認知症グループホーム、県市町村福祉行政機関、社会福祉協議会、幼稚園等です。
しかし、開催日1週間前の時点で、申込者数は50名にも達しませんでした。急遽この事態への対応について検討し、その結果、予定していた300名収容の常陽藝文センターホールをキャンセルし、水戸市三の丸公民館へ会場を変更して開催しました。三の丸公民館館長のご理解のお陰です。
私たちは、「介護や福祉の世界にも第三者評価は必須要件になる。第三者評価の活用について、福祉関係者や教育関係者等と共有化できる」と考えていました。
このような事態が起きてはじめて、介護福祉の現場や幼稚園現場がどのような状況にあるかを知ったのです。
今事業の協賛団体に、会場変更の連絡を入れた時のことです。
幼稚園の現状について、リリー幼稚園の園長が「茨城県で100人の参加があれば捨てたものではないと思っていた。ISOというテーマで参加する人たちがどういった人達なのかを知りたい。職員は外部から評価されるのを嫌がる。私もそうだったから」と、ISO取得側からの感想を伝えてくれました。
また、茨城まごころ介護サービスの所長は、「知り合いの事業所に参加を働きかけているが、どこの事業所も2、3日先の予定も立てられない、人手が足りない」状況だと教えてくれました。介護福祉の現場は、度重なる介護保険の改正に対応することで精一杯。仕事の内容を点検する時間すら持てずに介護している状況だったのです。
「介護福祉は『きつい・汚い・給料が安い』という3K職場だと周囲は見ている」と、シンポジウムの中で石川さんが話していたことは、すでに茨城県内でも起きていました。
◆「ISO」「QOL」「第三者評価」という言葉
精神福祉への理解・参加を働きかける上で、できるだけ分かりやすい言葉で伝えなければならないと、案内文書や報告書等の作成には今まで注意を払ってきました。しかし、今回のテーマで、「第三者評価とは何かを一緒に検討しましょう」というように受け取られたようです。それは次のような重要な課題が投げかけられたことから推測できます。
会場キャンセルの手続きの時に「ISOは、市民には浸透していない言葉。私も分からなかった。早すぎるテーマだったのでは?」と言った常陽藝文センター担当者の言葉。
水戸市三の丸公民館館長からの「QOLって何?」という問い。
この問に対して「え、QOLを知らない?」と思った自分自身は、当然誰もが知っているという思い込みを前提に、言葉を使っていたことに気付かされました。
このことについては、シンポジストの袋田病院院長の的場先生から指摘を受けていました。シンポジウムの打合せに行ったとき、的場先生はテーマを見てすぐに「大子町にISOという言葉を知っている人はほとんどいない」と言い切りました。
その時の私は、的場先生の言葉の重さに気付きませんでした。教育や福祉関係者は当然知っているものという前提に立っていたからです。
また、私たちがテーマとして設定した「第三者評価」という言葉を丁寧に説明する必要がありました。
介護保険ではすでに、「第三者評価」が導入されています。それは、「ISO」とは全く別物です。そのため、「第三者評価としてのISO」という言葉は、介護事業関係者には理解し難いことと、石川さんと打合せをする中で分かりました。
私たちが使う「第三者評価」とは、自分たちの活動の質について、自ら点検することに加えて、外部からの評価を受け、自らにフィードバックすることを通して点検内容を活かすものだと、当日説明を行いました。
課題のわかりやすさという点で以上のような問題がありましたが、「評価を考える」という意味では参加者と共有できたことがあります。
参加者から「評価となると難しく考え、拒否反応が出てしまう」といった意見が出されました。「評価」に対して誰もが何らかのイメージを持っています。その中身の点検が必要です。シンポジウムでは、「評価についてヒステリックに考える必要はない。自己点検システムを創りだすことが必要」という指摘を受け、各自の「評価」に対するイメージを改めて点検する機会になりました。
◆地域交流・啓発事業で何を伝えるのか
ところで、福祉における地域交流・啓発事業とは何なのでしょう。私の中にはずーっと引っかかっていたことがありました。こんなことがきっかけです。
昨年水戸市内に、障害者の作品を展示するギャラリーがオープンしました。オープン記念の企画を、皆で見る機会があった時のことです。理事長がボソっと「自分たちのやりたいことだけをやっていたのではダメだ」と感想をもらしました。傍にいた私はその意味が直ぐにはわかりませんでしたが、その言葉は私の頭から離れませんでした。
今回の地域交流啓発事業を総括する中で、その言葉をふと思い出しました。今回の企画は、自分たちの「知りたいこと」「やりたいこと」が優先していたのではないかと。
日本で初めてISOを、介護福祉事業や幼稚園事業に導入した石川氏や大久保氏の理念に、地域に即した精神医療活動を実践する的場氏に、学びたいという思いが優先し、今後の福祉に必要不可欠な課題として企画提案しました。しかし、「第三者評価」や「ISO」ということが茨城という土壌でどのように捉えられているか、認識されていないとすればどういう方略で伝えていくべきなのかといった点検が後回しになったのです。
これまで私たちは、障害者があたり前に「地域の中で生き、老い、死に行く」社会の実現について言葉にしてきました。それは、光風会の活動に共感し賛同する人を1人でも増やす「運動」を抜きには展開できません。(社福)光風会の地域交流・啓発事業は、福祉に関わる私たちが専門性を基盤とし、市民に精神福祉のあり方を伝え続けていく重要な手段です。更には、参加者から評価を受けることをとおして、その成果を把握できる絶好の機会です。
自分の思いとしての「やりたい」から、自己課題としての「やらなければならない」へ。
私たちがやるべき精神福祉に関する課題は山積しています。
(高島真澄)
3.「風(FOO)」
有機的な組織性と活動を組むことが大切
昨年11月に行われた「風をはこぶシンポジウム」で、老人介護施設と幼稚園で共に日本で初めてISOの認証を取得した経過について、それぞれの理事長が報告しました。
2人の話に共通し印象的だったのは、認証を取得する過程で、スタッフが大変な思いをしたにもかかわらず、より活き活きとし始めた、と話していたことです。
石川さんはその理由として、「それぞれのスタッフが自分の仕事に誇りをもてるようになったから」とし、「評価とは、仕事を担う人が誇りをもって働けることにつながらなければならない」と話しました。一方、現行の介護保険の第三者評価は、画一的な評価基準で評価するために、スタッフの士気の向上にはつながりにくいとも側聞します。
2人の話を聞いて、「有機性」ということの重要性を認識しました。
それは、組織の中で個々に機能を担って働いている人々が、それぞれの機能をより完全なものに近づけようすること。そして、自分達の仕事を点検し検証する作業を積み重ねていく中で、他の機能を担う人々との連携が生まれていったこと。その結果として全体の機能がアップしたことを実感したときに、自分の仕事への誇りがもてて活き活きとし始めたのだと理解しました。
単純化すれば、「組織を構成する人々が1つの目標を共有し、それぞれがそれぞれの機能を自主管理しながらスキルアップをはかれば、必然的に他の機能を担う人々との連携が生まれ、組織全体が活性化される」ということです。
そこに秩序としての一定のルールが加われば、その組織は有機的に活動をしているということになります。
3人目の袋田病院の的場院長は「病院の機能評価は実態にそぐわず、評価に合わせることは本業をおろそかにするもの。地域性も考慮されていない」と指摘しました。そして、「病院は地域を構成する機能の1つとして役割を果たすべく努力してきた。これからは地域の中で精神科という特殊な機能を担うだけでなく、機能を充実させ広げていく中で地域での信頼を更に得るようにしていきたい」と語りました。
これも地域を1つの全体としてみたときの、有機的に活動を展開する仕方だと思いました。大子という地域で活動する様々な産業や組織・団体などが、こうした想いを共有し具体化する機会を持つならば、取りたてて「町興し」などと言わずにすてきな町作りができそうな気がしました。
3人の話に共通するものは、自己評価の重要性です。その自己評価が有機的活動に結びつくかどうかの出発点です。
「風(FOO)」においては極力役割分担を排し、機能と情報の共有に努めています。職員それぞれが1つの「種」として行動し、互いを通じて「実り」を共有することを目指しています。
「種」を自己評価し、「実り」に対する評価を受ける。
「花信風」は、その評価を受けるものの1つです。
(鈴木 宗夫)
4.コミュニケーションと第三者の評価
−インターネットネットによる「いじめ」から−
◆社会への情報発信は「花信風」
今回の「花信風」は第12号になります。第1号より執筆していますが、毎回原稿を書く時はとても気が重くなります。
毎日書いている日記は、自分だけが見るものであり、他者の評価を受けることはありません。そのため、自分の気持ちのままに書きたいことを自分だけの価値観で書けば良いわけです。
一方、「花信風」は、誰が読んでも分かりやすく専門的な言葉が羅列されているだけの文章にならないこと、光風会の活動や理念が明確に文章から読み取れることなど、読み手となる賛助会員のことを考えて書くことが必要とされます。
「花信風」は精神福祉の創造のひとつの手段です。これを通じて光風会の活動に賛同していただける方を募り、精神障害者支援に対する理解を得ること、社会に対して社会福祉法人の責任を季刊誌を使って情報発信していくことが必要だと考えているからです。
書き手が書きたいことを感情のままに文字にするだけでは、本当に伝えたいことが上手く伝わりません。「感情のままに書くことが全て良いことではない。一呼吸置いて、読み手がこの文章を読み、提供した情報をどう捉え判断するのかということも考えることが必要である」ということを学んできました。
また、「花信風」は情報を発信するだけの物ではなく、支援者1人ひとりが文章を公表することで、第三者からの評価を受けることが支援者の責任だと思っています。精神障害者の支援に関わる仕事は、自分自身の日常生活の中で「相手に何をどう伝えていくか」に、大きく影響していることだと考えています。
◆ネット「殺人」
インターネットが生活の一部となり、誰でも簡単に利用することが出来る時代になりました。「ネットカフェ」といわれる場所も拡大し、自宅でネットが出来ない人でも、行って簡単に楽しむことが出来ます。
最近、ネットを使った電子メールによる子どもの「いじめ」が数多く報道されています。「いじめ」のターゲットになっている子どもにだけメールを送らない。そのため、いじめられている子どもだけがその送られた情報を知らない、という状況を作り出すのだそうです。つまり、ネット上にその子は存在しない=「殺された人」となるのです。10年前では想像がつかないやり方です。目に見えないというより、本人が知らない状況の中で「いじめ」が行われています。この様なことは、子どもの社会だけではなく、大人にも同じことが起こっています。
インターネットを使っての文字でのやり取りは、いくつかの種類があります。「チャット」「掲示板」「SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)」「メール」などです。これらは匿名で利用することが出来ます。そのため、書き込んだ自分の言葉に責任を持たずに意見を書き込んでいくことが出来ます。匿名の為、人には大きな声で言うことが出来ないことでも気軽に書き込むことが出来ます。
インターネット上に個人を特定出来るような書き込みをすることが出来るため、日常生活で自分にとって邪魔だと考える人の個人情報を流し、否定するようなことを書き込んで相手を痛めつけたりすることも出来ます。書き込みをした本人を否定するコメントを書かれることや、書き込みしたものに対して周囲が反応を示さずに「シカト」するようなこともあります。
インターネット上でそのような嫌な思いをした人は、自分が書いたものを消すことも出来ますし、その「場」から立ち去ることも出来ます。つまり、現実の社会の中では有り得ない「消える」=「自分自身を殺し、また復活する」ということが容易に出来てしまうのです。
日常ではない異次元の中での「いじめ」ですから、「冗談」と言ってしまえばそれまでです。しかし、その「冗談」によって、「消えたい」と考える人や、「いじめ」を感じる人が存在しているのです。
◆「ことば」の無いが機械語のやりとり
私自身、パソコンを使ってのインターネットや携帯電話のモバイル機能を使い、友人と連絡をとることもありますし、生活する上での情報を得たりもします。手軽・便利ですから、普及するのに時間がかからなかったこともうなずけます。また、食事・本・生活用品等の配達だけではなく、銀行口座からの引き落としも出来るようになり、インターネットさえ出来れば、外へ出なくても家の中での生活が成り立つようになりました。
そのようなネット状況に身を寄せて、ネットを生活の一部としている人を否定するつもりも、助長するつもりもありませんが、便利になったことで『人と人』とのつながりが薄くなってきていると感じています。
SNSを使ってのコミュニケーションが流行しています。今、そのような手段で若者が連絡を取り合って「コミュニケーション」として繋がりをもっているのが現状です。
ユーザー同士でメールのやり取りをしている中でのトラブルが、いくつかありました。
【今何しているの?】といったメールに返信しないと更に【返事よこせよ!】と入ってきたりすることや、【今日は楽しかったよ】と遊びに参加していなかった人にメールをし、受け取った側は「『今日は』ということは、俺がいなかったから楽しかったのか」と受け取とられたりなどです。
メールでは、相手の表情、置かれている状況、言い回しを伝えることが出来ません。そのため、伝えたい側が自分の伝えたいことを上手に伝えることが出来ず、受け取った側が意味を取り違えて解釈し、トラブルに発展したケースもありました。
この様なことは、ユーザーだけではなく、私たち支援者側にも十分に起こり得ることです。
人との繋がりは時代と共に変化していています。その変化が正しいかどうかは別として、変化しているという事実があります。
しかし、どれだけ便利な社会になったとしても、顔と顔を合わせて話しをすることが、人と人の繋がりなのだと痛感しています。
◆「花信風」はコミュニケーション
光風会は、「花信風」という手段を用いて第三者からの評価を受けています。しかし、それは「文字」での表現です。文字をコミュニケーションの手段とするならば、どれだけ明確・的確に社会へ情報を伝えて行くことが出来るか、そして、多数の賛助会員に賛同していただくことができる活動を展開していくことが出来るのかを日々考え、実践していかなければならないと感じています。
4月より「障害者自立支援法」が本格的に施行される中で、光風会・職員の力量が常に問われてくることなのだと痛感しています。
(出澤 華奈子)
5.第三者評価から「福祉」を考えた
今年度の「茨精研・ICCAM」の研究課題を聞いた時の感想は、「第三者」とはいったい誰のことなのだろう、賛助してくれる人なのか、お金を出す行政なのか、一般市民なのかということです。そして、「評価」に対しては、学校の通信簿のように、上の立場にある人から良い悪いを判断されること、という思いがありました。
「第三者評価」とはどういうものかがはっきり分からないまま、11月の「地域交流啓発事業第6回風をはこぶシンポジウム」に臨みました。
シンポジストで介護事業分野の社会福祉法人理事長である石川さんの、「第三者評価としてのISO認証取得は、外の人には見えづらい福祉を、文書化し眼に見える形にすること。文書になるシステムや枠は、働く自分たちでつくっていくもの」という話には驚きました。第三者評価とは、ISOなどの評価機構が求めるままに情報を開示し、評価をしてもらうこと、という受身の意識をもっていたからです。
「風(FOO)」での「システム」と考えると、登録面接の書類や契約書などユーザーに直接関わるものや、浴室の管理表、開館・閉館時のチェック表など施設管理に関わるもの、毎週のスタッフミーティング、毎月のオールスタッフミーティングなど職員間で情報を共有するためのものなどがあります。
登録面接の書類は、登録予備面接票・ユーザー台帳・ユーザー記録票・支援に係る情報一覧・支援計画書の五種類です。ユーザー台帳の項目は、住所・氏名はもちろんのこと、家族構成・身体状況等々、38項目あります。
何をとってみても、「システム」だということが分かりました。同時に、それらの書類に漏れなく記入することが目的となってしまい、何のために書類があって、どういう意味で項目があるのかを考えようとしていなかったことに気づきました。
第三者評価とは、自分のやっている仕事を自ら確認・点検する手段です。ユーザーへの支援が相手に満足してもらえればいいだけではないのと同じように、第三者からの一方的な「評価」だけでは、自分の力にはなりません。
「第三者評価」を勉強することで、株価や売上という指標がある企業とは違って、「中で働いていては分からない、中のことが見えづらい福祉」を改めて確認しました。
誰もが利用してきた「児童福祉」、誰もが利用するであろう「高齢者福祉」、誰もが利用する可能性のある「障害者福祉」です。
職員と利用者との関係が外部には「見えづらい」けれども、第三者とは将来の当事者でもあり、社会の中の誰もに関係する「福祉」なのだと考えることができました。
(川島 麻子)
6.「陽(yoo)」
アビリンピック全国大会を見て思う
昨年10月末、第29回全国障害者技能競技大会(アビリンピック)に「陽(yoo)」のメンバーが参加することになり、支援者として同行してきました。
会場は香川県高松市の瀬戸内海に面したすばらしい会場で、穏やかな暖かさの中で競技会は開催されました。私は支援者として関わった競技会場と、開会・閉会式を見てきました。この大会の前には若者の技能五輪全国大会が開催され、その後に続けて行われました。
主催は、独立行政法人高齢・障害者雇用支援機構です。
▼参加者数名で全国大会?
この大会は元々、手に技術を持った身体障害者を中心にした職業技能競技から始まり、知的障害者も参加する競技会として続けられてきていたようです。目的を簡単に言うと「障害者への理解と就労促進・能力向上」であり、就労している身体障害者がメインの職業技能競技大会です。
技能五輪は旋盤など46種目。アビリンピック競技は26種目で、内、知的障害者の喫茶サービス競技等が4種目、視覚障害者の競技が1種目はいっています。そして、新たに生活余暇競技として4種加わりました。
都道府県により参加人数にも大きな差があります。県代表選手が3名以下の県は15県、10名以上の県は10県しかありません。競技により参加人数が極端に違い、参加人数が多いパソコン競技2種はほぼ全国から参加がありますが、少ない競技は2〜3名で6種目、5〜7名が12種目もあります。
生活余暇競技は、刺繍・編物・絵画・陶磁器成形という種目で、絵画6名・陶磁器5名・編物5名・刺繍2名の、合計18名の参加でした。また、県によりどういう選考で参加しているかもわかりません。全国大会といっても実態はこのような状態です。
▼生活余暇を競技してよいのか?
「陽(yoo)」のメンバーが参加した陶磁器成形競技は、制限時間内に自由制作でセット物3品と花瓶を作ることです。この課題は、個々の技術やセンスはある程度評価できますが、競技として優劣をつけるものではないと思います。陶芸は作業内容が幅広く、また、焼上げてこそ価値が生まれます。成形だけを取りあげる意味が理解できません。
陶磁器や絵画は、美術展系の作品展に応募する機会が多く、強いて競技にすることではありません。
参加選手は養護学校生や身体障害者、視覚障害者、そして精神障害者で、障害の程度・特性が当然違います。生活余暇、すなわち趣味であろう科目をなぜ競技として組み入れたのか理解できません。
生活余暇は個人レベルで楽しめればよいので、競技としたところに無理があります。
▼三障害参加といっても
「陽(yoo)」のメンバーがこの大会に参加することになった経緯は、県から窯業指導所に選手の推薦についての「お知らせ」が来て、指導所から「陽(yoo)」に問い合わせがあり、メンバーに聞いて希望を出したところ、代表選手として参加することになりました。
茨城県から参加した人の障害別人数は、身体障害者と知的障害者の参加割合が半々、今回初めて精神障害者が参加したようです。
この大会を担当しているのは、商工労働部職業能力開発課であり、障害者を含めた雇用支援についての課題を担っている所です。予算や県職員の支援体制により参加者数が限られていることと、従来の伝達範囲で情報を流したので、障害者・関係者にオープンな形で情報は流れていないようです。
障害者自立支援法で就労支援が叫ばれていますが、商工労働部と少なくとも保健福祉部の精神保健担当とは、密接な連携がなされていないと感じました。
▼表彰される意味
表彰式では、生活余暇も他の競技と同じく金・銀・銅メダルを授与されます。参加者が2名だった刺繍は、2人とも同じ県代表で、ともに銀メダルでした。このことからも、技を競う競技会として、各県レベルで組み立てられていない事がよく分かります。
一般的にいって、全国障害者技能競技大会金メダル受賞という言葉からどういうイメージを持つのでしょうか。たぶん言葉通り、全国の中でトップクラスの技能の持ち主と思うはずです。しかし、実態は、県代表になった数名が競技の形式のなかで趣味や得意な事を披露したというところです。
その結果、「実態」と「メダルを授与された事実」との違いが大きいほど、受賞した障害者は、「社会の評価」と「障害者枠での評価」の違いといった、「『評価』を受けること」の位置づけの違いにより、様々なストレスを受けることになります。
特に精神障害者の場合、障害を持ちながらも「良くがんばったね」という「温情」と、社会に厳然としてある「差別・偏見」と、私は金メダルを取ったという「優越感」との乖離が、当事者の自分自身をコントロールする力を奪う問題を生じさせることもあるのです。
茨城県は3年後に開催県になっていることもあり、選手数が4番目に多い15名の選手団になりました。県庁で技能五輪選手団の結団式と合同で、アビリンピック選手団の結団式を行いました。終えてからは職業能力開発促進大会で、アビリンピックでの受賞者も表彰されました。
ちなみに、「陽(yoo)」のメンバーは銀メダルを受け、今年11月静岡で行われる国際アビリンピックに出場することになりました。
誉められて悪い気になる人は少ないでしょう。しかし、表彰されることがマイナス要因となりうるのです。支援者は「評価を受ける怖さ」を肝に銘じなければなりません。
(菅原 淳一)
7. 初、オカリナ演奏
この1年は異常気象が及ぼした花々への影響を書き綴る結果となりましたが、ダメ押しの様に今冬は木の実が全くありませんでした。花のない正月に南天・梅もどき・ガマヅミ・ゴンズイなどが花に負けない位の彩りを添えてくれていたのに寂しいかぎりです。各地の便りで熊・猿・鹿・猪等山の生き物が里に押し寄せたのも頷けます。
その一方で異常気象は寒中にもかかわらず桜の開花時期の日和をもたらしたりもするのですが、まさにそんな陽気の1月27日(土)午後、ユーザー有志が「みんなの音楽会」という催しに参加して、オカリナ演奏に初挑戦してきました。
工房「陽(yoo)」では、法人化以前の時代から数えて18年オカリナを作ってきました。その間、個人的に演奏に長けたユーザーによる、陶炎祭やバザー等のイベント会場で場を盛り上げるための演奏はありましたが、合奏というのはありませんでした。みんな常々「合奏が出来たら良いね」という想いはあり、事ある毎に口の端には載っていました。切っ掛けがないというかタイミングがつかめないまま月日が経っていました。
「みんなの音楽祭」は笠間市主催・笠間市社協後援で開催されました。
「歌や楽器演奏、ミュージカルなど音楽を通して、大人も子供も障害のある人もない人も一緒に楽しみながら交流と親睦を図り社会参加促進に寄与する」趣旨により、市内の障害者(児)・一般音楽関係者・一般市民に参加呼びかけがあったものです。
通知を受けてから返事まで10日余という師走後半、スケジュール的に無理かなと思う反面、合奏への挑戦のチャンスかもしれないとの思いも頭をよぎり、思い悩んだ末ユーザー皆に提案しました。その結果、決して積極的とは思えないユーザーの意思表示でしたが、参加が決まりました。
具体的準備は年が明けてからで、曲目は時間が無いので1曲のみ、皆の好きな演歌でオカリナの音に合いそうな曲ということで、「越冬つばめ」に決まりました。
創作の時間を使い、「ヒュルリ〜」というさびの部分から、口移しならぬ指移しで、1人ひとり吹ける範囲を広げていくという方法での練習でした。
「陽(yoo)」では、音域が「1オクターブの物」と「+4音」の2種類のオカリナを製造販売しています。多くのユーザーが小オカリナでさび部分を練習している間に、演奏に長けた3人は大オカリナで全曲勝手に弾き熟しているといった按配でした。自然と3人の旋律に合わせて、さびの部分を全体が盛り上げるといった編曲になりました。
途中「地域で目立つことはするなと家族に言われた」という理由で4名が不参加、「オカリナの音が耳について困る」というクレームが1名からあり、参加するユーザーは遠慮しながらの控えめな練習でした。
間近になって緊張もしてきて、どうなることやらと迎えた当日、現地集合で集まったユーザー9名スタッフ2名は、笠間市友部公民館の舞台でオカリナ合奏をしたのです。
後日参加者に感想を聞いた処、「舞台の上でのドキドキを初体験した」「練習どおりにはできなかった」「演奏だけでなく上がらない練習もしたかった」「部活のように続くといい」などが寄せられました。他の演奏会参加者からの「オカリナの音色が好かった」という声をユーザーに伝えたところ「評価されるのは嬉しい」ということでした。
今回のオカリナ合奏練習には思わぬ副産物がありました。それは皆がオカリナは単なる焼き物ではなく、「音を奏でるという用途のある道具でもある」ということに全員同時に気が付いたということです。演奏するということを通して、「評価を受ける」ということをユーザーは評価したのです。1つの認識を、同時に複数人に言葉でつたえるのは結構困難なことです。
これからのオカリナ作りに楽しみができたところです。
(鷺野谷 まち子)
8.「伊藤まり子作品展」を終えて
新しくさらにゴージャスになった
京成百貨店の一画で
自分の作品を展示する機会を得て
「やったー!チャンスだ、頑張ろう」
と ポジティブに
受け取れる自分と
「んー、大丈夫かな?できるかな?」
と タジタジ
している自分がいました
お話を頂いた時は
ポジな私が俄然優勢だったのに
会期がちかづくにつれ、
タジタジな私が
追い詰めて来るのです
フロアの片隅とはいえ
ショーケースや棚 壁 テーブルと
展示スペースが充実していて…
それに見合った質と量の
品物を果たして
作ることが出来るのだろうか、
わざわざ足を運んでくれたお客様を
がっかりさせることに
なったらどうしよう etc ...
心配しだせば
もう、あちらこちらで
心配の種が芽を出します
しかし、いつまでもそんなタジな
自分に付き合ってはいられません
限られた時間の中で
とにかくベストを尽くすしかない!
と開き直って
なんとか
展示会に辿り着きました
会期の前半は
知り合いの皆様が
見に来て下さって
あっという間に過ぎてゆきました
後半は
ポッカリと暇な時間もあり
そんな時は秘かに
お客様の人間観察をしていました
話しかけてみると
案外気さくな方が多く
改めて
人は見掛けで判断できないものだ
と気がつきました
こうして
展示会は
無事終了しました
いつもと違う
環境での仕事は私にとって、
とても刺激になりました
この経験を生かし
もっと視野を広げて
これからの
「陽(yoo)」の仲間との
作陶に取り組んで
いきたいです
伊藤まり子
9. 子ども研 子どもはどこでどんなふうに分けられる?
平成元年から10年まで、茨城大学教育学部教育研究所教育相談室に非常勤相談員として勤務していました。そこで市町村が実施する乳幼児健診の心理相談を始めることになりました。平成2年4月に岩間町(現笠間市)に対応したのが最初ですから、16年前のことになります。現在は、光風会「子どもの問題研究所」が笠間市、桜川市、行方市からの委託を受け、研究員として対応しています。
その中で、1歳6ヶ月児、3歳児を育てている多くの母親とかかわってきました。
相談の内容としては、子どもの発達に関することが多いのはもちろんですが、最近は、子どもへの声掛けの仕方がわからない、子どもがかわいいと感じられない といった、母親自身の育児不安の悩みも多くなってきています。さらに挙げられるのは家族の問題で、夫との関係や、嫁姑の関係が中心です。兄弟姉妹の相談も度々受けます。
例えば「この子は問題ないのですが、お兄ちゃんが反抗的で困っています。同じように育てているのにどうしてこんなに違うのでしょう」というものです。子どもの問題研究所で実施した「子育て連続講座」に参加した母親からも、下の子はかわいいと思えるが、上の子にはついきつく接してしまう という声が聞かれました。
もちろん逆の場合もありますが、いずれにしても母親は自分の思い通りに育つ子は問題のない「良い子」と評価し、育てにくい子は「困った子」と捉えがちです。そのような母親に対しては、それぞれの子どもに同じ態度で接することが平等な接し方ではなく、その子に応じた対応の仕方が必要であることを伝えます。また、子どもの気持ちになって考え、子どもの心に気づくことが大切と話しています。
小学生の子どもを持つ母親の相談も、同じようなことが学校教育現場課題との関係で起こっていることを感じます。
自分の子どもについて、担任教師から次のようなことを母親が言われる例があります。
「場面の切り替えが苦手で、指示が1度で通らず、皆と同じ行動が取れないからかわいそう」と言われた。
「集中力がないので、授業中他児の言動に影響されて勉強が遅れる」と言われた。
この様な理由で、子どもを「心の教室」等と呼ばれる特別支援教室に通級させることを、担任教師などから勧められる例が、学校教育現場で増えています。
親としては、子ども自身が困っている様子もなく、毎日楽しく登校しているのだから、すぐには担任教師などからの提案は受け入れられません。
そこでこのような場合、教室内で対応してもらえるよう、親と教師たちとが話し合いを持つよう提案します。話し合うに当たって親に提示する支援の内容は、初めの事例の子については、もう1度念押しの声掛けを先生にしてもらう。2つ目の事例の子については座席を最前列にする といったものです。
この様な対応で、親が問題を解決した例があります。
一人ひとりの子どもに同じ対応をすることが平等であり、皆が皆同じことが出来ることを基準にして子どもを分けるならば、特別支援教育は、教師が円滑に教室運営を進めるために「困った子」を排除することになりかねません。一方子どもは小学生にもなれば、自分はなぜ皆と違うのか、どうせ自分は変な子だから といった気持ちを抱き、将来そのことが精神的課題を負うことにつながりかねません。
学校教育現場においては、発達障害者(児)支援法の施行もあり、障害児の支援体制の整備のために校内委員会を設置しています。また、特別支援教育コーディネーターが中心となり、個別の支援計画を作成する等支援システムの構築や、個々の障害の特性の理解と対応法の研究が行われています。
しかし「特別に支援する」ということは、先に「分ける」ことありき ではないはずです。障害名によって子どもを位置づけるのではなく、子どもに対応する側が、この子どもにとって今なすべきことは何かを評価し、見極めることが必要なのです。その上で、一人の子どもの状況に応じた支援方略の専門性が、かかわる側に問われてくるのです。
特別支援教室という場の活用が、どのような専門性に基づき展開されるかを注意し続けること必要です。
支援は、あくまで「『評価』を受ける」子どもを尊重したものでなければなりません。
(高橋 寿子)
発達障害者(児)支援法
発達障害は、「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であって、その症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるもの」と位置づけられています。早期に発見し治療教育につなげるとともに、ライフサイクルを視野に入れた支援を行うことを目的として、2005年4月より施行された。
特別支援教育
文部科学省は、「今後の特別支援教育の在り方について」の最終報告(2003年)において、障害の程度に応じて特別な場で指導を行なう「特殊教育」から、障害のある児童一人ひとりの教育的ニーズに応じて適切な教育的支援を行なう特別支援教育への転換を図る必要性を示した。
その後、モデル事業を通じて2007年度までに、全国すべての小中学校に特別支援教育コーディネーターを配置する目標を掲げ、支援体制の整備を進めている。
編集後記
「兵器」を作っている会社がISO等の外部評価を受ける時、「兵器を作っていること」が評価されるわけではありません。「兵器を作るプロセス」や「兵器の完成度」等が評価されます。顧客が満足するかどうかが重要で、「人殺しの道具を作る」…否、「自らの身を守る道具を作り世界平和に寄与する」という考え方の是非は問題にされません。◆福祉の第三者評価というときも同様です。その法人の理念に即した実践が展開されているか否かが評価視点になります。理念そのものが評価されるわけではありません。◆どの法人もノーマライゼーションという基本理念は共通ですが、その言葉の理解によって全く違う実践が組みたつのですから、理念そのものを「第三者評価」することは極めて政治的な文脈に位置づけられます。◆「『理念に共感し信頼できる第三者』からの忌憚のない評価」が、私たちが考える「第三者評価」なのです。◆ところで、スタッフ家族の不幸があり、編集作業に手間取りました。お手元に届けるのが遅れ、申し訳ありません。 (斎藤 悟)
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